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2004年12月24日金曜日

南信濃紀行04 ~霜月祭り〜

◆2004年12月22日(水)
13時、立川をレンタカーで出発。いつものことを考えるとかなり遅めの時間。出来れば陽が落ちるまでに矢筈トンネルをくぐりたいな、と思いつつ車を走らせる。中央高速は順調。17時過ぎにはかぐらの湯に到着した。
いつもお世話になっている方に簡単な挨拶だけ済ませて大町へ。
集合時間は18時だったが、15分ほど早い到着。集会所には既に地元の方が集まっていた。
今回は、大町にあるキャンプ施設・天仁の杜の企画である霜月祭り体験ツアー『山の寺子屋』の裏方スタッフとしての参加。ところが集まってみると、全員が裏方スタッフ(いわゆるボランティア)で、普通の参加者はいないらしい。ボランティアは私を含め、近県の岐阜や名古屋、福井などから10名ほど。論文の調査にきている学生さんもいた。私のように、昨年から続いての参加、という方もいた。

まずは保存会の方から、霜月祭りについてのお話をいただく。
「『遠山様のお祭りが始まると空が荒れる』なんてことを、かつては飯田の衆も言っていたようだけど、今は気候も変わってしまって、そんなことも聞かれんようになったね」
この年は特に暖かく、いつもは雪が舞うのが常という尾之島の八幡様の霜月祭りでも、降らなかったらしい。
話を聞いたあと、男衆が湯木を持って翌日の舞いの練習をする。保存会の若手の方が何人か来て足捌きを教えてくれるが、参加者のほうはなかなか上手く行かない。女は舞うことのできない神楽なので、もう1人の女性と部屋の隅で見学する。
一通り練習したあと、駆り出されたのは丸刈り頭の若手の舞い手。
彼は、私たちが2001年の春に初めて遠山郷を訪ねたとき、大町の天満宮で霜月祭りの実演を見せてくれた高校生の1人で、あの年の春に卒業し、今は飯田で働いているらしい。あのとき猿のオモテで舞いを演じ、大人たちから「まだまだ小猿なので」と辛口のフォローをもらったのが印象に残っていたのだが、そのあとも直接話す機会がなく、名前がわからずにいた。それなので失礼ながら私は、影で彼のことを「小猿」と呼んでいた。失礼ついでに、 このあとも「小猿」と書かせていただくことをお許しいただけたらと思う。
その小猿が、猿舞いの練習を始めたのだ。聞くと翌日の祭りで、猿を舞う、という。
練習のあとの地鶏鍋を囲んで懇親会に、仕事帰りに顔を見せてくれたのは、前年も話をした、小猿より1歳年上の整備工の青年。話の流れで「何で舞い続けてるの?」と尋ねたら「高校受験のときも、就職のときも、お世話になったから。言い方変かもしれないけど、恩返し、のつもり」と返ってきた。
残りの御飯でおにぎりを握っていたら、小猿がやってきて「わたし、上手いですよ」と握り始めた。蕎麦屋で修行中だけに、手さばきは流石。整備工の青年も台所にやってきたので「握ってみる?」と言ったら、「あー、指に油が染み込んでるから駄目っす」と笑った。使い込んだ指先をしていた。
小猿は遅くまで片づけを手伝ってくれ、夜中も遅くに「また明日」と実家に帰っていった。

↑朝の8時、奉納の旗を立てる。
眼下、橋の下を流れるのが遠山川。
陽はまだ昇らない。
◆2004年12月23日(木)
6時起床。台所を借りて、適当に朝食を作る。
朝7時半に天満宮へ行く。
茶畑には一面の霜。乗ってきたレンタカーも霜で真っ白。暖冬とはいえ、やはり朝は凍えるように寒い。
境内には既に何人かの地元の人がいて、焚き物を始めていた。
拝殿の掃除から始まって、境内の掃除、ドブ攫いなどは前年もやった作業。適当にホウキを見つけて塵を掃く。ふと気が付くと、前の年、かす舞いを舞った青年の姿を見つけた。前の年、高校三年生だった彼は直会で「進学しても祭りには戻ってきます」と言っていた。南和田保存会最年少、期待の星です、と紹介されていた。春に県外へ進学したと聞いていたが、彼も戻ってきていた。
そのあと休憩に使う民家の準備の手伝い。畳を拭き、お湯を沸かして、お茶と茶菓子の準備。
一緒に準備をしていた地元の女性の方を、ご主人が呼びに来た。「お祓い、やるでよ」。忌中の人はお祭り前に鳥居の前で禰宜様にお祓いをしてもらう。お祓いをしてもらうと、鳥居をくぐることが出来る。女性は、最近お兄さんを急なことで亡くした、と言っていた。『ブク』と言うそうだ。
↑湯飾りを取り付ける。
ブクの人はお祭りの間、焚き物の面倒や湯釜のお湯の面倒を見る役目にまわり、神楽を舞うことはない。大町では舞い手が少ないので、なかにはお祓いを受けたうえで舞う人もいるそうだが、やはり気持ちのことがある。
休憩のあと、浜水汲みに同行させてもらった。
集落の裏手の雑木林の中、砂防堤の上を流れる沢の水を汲む。流れに沿って柄杓で7杓半をすくい、注連縄を巻いた手桶に入れて、沢の砂と一緒に神社に持ち帰る。その水が、湯釜で一番最初に焚かれるお湯となる。沢の砂は、八将神を立てた囲炉裏の四隅に五回に分けてまく(西に二回まくので計五回となる)。
湯飾りを湯棚にとりつける。外側の大千道(おおじみち)から小千道(こじみち)、八つ橋、十六の雛(ひいな)、かいだれ(八流れ)を注連縄にねじり込んでいく。東の隅にだけ、湯男をつける。
《去年のメモから 湯飾り 》
↑ふみならしの舞。
神様をお呼びする前に
場を清める意味を持つ。
禰宜様が祝詞をあげて、囲炉裏に火が入れられる。
そのあと、11時ころから社掌祭り。ご開帳のあと、玉串を捧げる。
昼食後、ボランティアに参加している学生をかぐらの湯に送って13時半ころ大町にもどると、湯の式が始まっていた。入口すぐの左上にある楽堂と呼ばれる場所に、四人ほどがあがって神楽を歌っていた。
そのあとふみならしの舞、一の湯、湯開き、下堂祓い、とお神楽が続く。
舞い手の少なさか、若手は次々と舞いに出ていく。合間、今年生まれた赤ちゃんのお宮参りの姿も。また受験生が合格祈願をしてもらってもいた。
夕食も終わり、やおとめの後、いよいよオモテが開く段になった。オモテの最後、猿舞を舞う小猿は、「緊張してきた~」と落ち着きがなく、梁で頭を打ったりしていた。その様には、こっちまで緊張してくる。
↑水の王。
いつもよりかなり多めに
湯釜の湯を祓い飛ばされました。
オモテは全部で42面。ボランティアの参加者や参拝客も参加して舞われる。遠山中学校の教頭先生や体育の先生、英語の先生も飛び入り参加。
そして最後、小猿の猿舞。「腰が高いよ!」とは、実のお母さんからの温かい激励。延々30分を舞いきった小猿が最後、神殿の前でオモテを外し、湯釜の方向へ深々と頭を下げると拍手喝采がおきた。
かす舞い、雛(ひいな)おろし、金剣の舞で、神様方に無事にお帰り願って祭りは終了。
23時頃、直会で雉+地鶏鍋をいただき、簡単に掃除をしてから解散。参会者と、天仁の杜の責任者の方とスタッフ、小猿とで、集会所で改めてお酒を交わす。
天仁の杜の責任者の方は、大町に残る17戸を守るお一人。大町は戦中、若者が次々と戦地へ招集され、祭りを続けることが出来なくなった。それを昭和53年に、この方を含め当時若手だった人たちが復活をさせた。人数はお隣の和田保存会の力を借りて補っている(南和田の人々が和田の諏訪神社の氏子でもある、ということもあったようです)。整備工の青年のように、和田保存会と南和田保存会を兼任している人が何人かいるという。また少しでも参加しやすいように、本来は17日だった祭りの日を祝日の23日に変えてもきた。
↑『小猿』の猿舞。
背後、白装束で見守っているのは、
諏訪神社で猿を舞った方。
遠山の霜月祭りは鎌倉時代に端を発すると言われ、約800年の歴史を持つとされる。その方は「天満宮のお祭りを、あと100年続けられるようにしたい」とおっしゃった。
この方の息子さんは8年前、村に戻ってきて家業を継いでくれたという。それだけでなく保存会に入り、大町だけでなく和田の諏訪神社でも舞う。整備工の青年も、この日だけは仕事を休んででも帰ってくる。小猿も、休みをとって帰ってきた。和田から舞いに来る中学生たちもいる。

その小猿は「大人たちが踏ん張ってくれたから、今、自分たちが舞えるんです」と言った。 
猿舞という大役を終えた安堵感からか、直会が終わったあとも酒が思ったよりすすんで、小猿はこの晩、参加者と一緒に集会所で雑魚寝をした。
夜中の2時半ころ、やっと就寝。
《去年のメモから 雛(ひいな)おろし 》

◆2004年12月24日(金)
のんびり8時起床。
午前中、参加者が天仁の杜へ植樹に行っている間に集会所の片づけをした。参会者は植樹のあと、地鶏の養殖場を見学したらしい。
11時頃に大町で解散となり、私はかぐらの湯で二日ぶりのお風呂。毎度のことながら、身体中から煙の匂いがした。
アンバマイ館(観光案内所)で一時間ほど話をし、13時半ころ遠山を出発。
18時半に立川に到着。
世の中はクリスマスイブだったんだなあ、と思いつつ、帰路につく。

南信濃紀行04 ~霜月祭り  2004.12/22~24 絵と写真、文:岩井友子