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2005年2月17日木曜日

伊勢紀行01 ~ご遷宮をテーマに その2

●2月17日(木) 薄曇り時々晴れ

外宮さんから風宮、多賀宮、土宮、下御井神社とお参りし、社務所の横を通って厩に行くと、真っ白な神馬がいた。昭和51年生まれとかで、馬としては高齢になるんでしょうか。ぼーっと参拝者を観察していた。

<御正宮・豊受大神宮。>
<神馬。美しい白馬。>
<上御井神社の遙拝所近くにある
稲荷。木の根元に祀ってある。>
<茜(あこね)さんの稲荷たち。
伊勢の人たちは、稲荷をとても
大事にしているようです。>
<江戸時代に遊郭があった
古市の町並み。
ほとんどが第二次世界大戦の
空襲で焼失したそうです。>
<伊勢自動車道の上から朝熊山。
伊勢の鬼門を守る金剛證寺がある。>
<風日祈宮橋の上から。
木の芽がほんのり紅いのが、
わかるでしょうか?>
<御正宮・皇大神宮のご遷宮地。>
度会国御神社、大津神社にお参りし、そのさきの細い小道を行くと『入林禁止 火の用心』の看板と柵で足止め。上御井神社はそこから見えることはないが、その柵の前で一応、遙拝。

柵の近くの木の根元に、陶磁の稲荷さんがお祀りしてあった。『寒中お見舞い』の札は、月夜見宮のわきにあった稲荷さんの鳥居にも貼ってあったもの。外宮さんも摂末社も、どこか俗世から隔たる清潔感があるが、こういう雑多な感じはちょっぴり『人』を感じさせて、ほっとさせてもくれる。 いったん、外宮の外に出て、森沿いに御木本道路を歩く。

外宮の森、勾玉池の側にある『あこねさん』こと豊川稲荷茜神社は、もとは摂社のひとつだったとか。変遷を重ねて氏神になった、と説明板に書いてあった。そういうこともあるのか、と、またひとつ勉強。

度会大国玉比賣神社、伊我利神社、山末神社、田上大水神社・田上大水御前神社をお参りし、古市へ続く道に入ったのは11時50分頃だった。
地図を片手に歩くも、どうも上手く歩けず。
ふらふらと半ば勘を頼りに、世義寺へ。もともとは外宮宮域の西側にあったのを、神域と寺が接するのもどうか、というのでこの岡本という場所に移ったらしい。往時の修験道の名残を、護摩堂に留めている。


さて、私はまた、ここから道に迷う。
そして、やっぱり頼りにするのは、勘。方向音痴なのに、無謀もいいところ。
住宅街をてくてくと歩き、近鉄線の高架をくぐり、めざす伊勢道路に出てはみたものの、かなり異なる場所に出てしまった。
伊勢街道沿いにある古市という場所は、江戸時代にお伊勢参りがさかんだったころ、遊郭があった場所。外宮から内宮へお参りした人たちが、ここで楽しんだということ。外宮から内宮へは、御木本道路や御幸道路といった大きな道路もあるが、この伊勢街道が一番古い道、ということらしい。
長峰神社から麻吉旅館をくぐって一旦伊勢自動車道沿いへ。ふたたび伊勢街道に戻る。

伊勢自動車道の上を行く高架からは、朝熊山が見渡せた。
「お伊勢参らば朝熊をかけよ 朝熊かけねば片参り」
とは、朝熊と尋ねられて伊勢の人が必ず言う言葉。伊勢音頭にうたわれる言葉で、朝熊山の頂上には、伊勢の鬼門を守る金剛證寺がある。
伊勢自動車道の建設のためすっかり見通しがよくなり、見渡せるようになったそうだ。 奉納された巨大な常夜灯の前を過ぎると、転げ落ちそうなほどの急な下り坂が目の前に。

左手には『猿田彦の森』の石柱があり、内宮が近いことを教えてくれるが、これまでの道もそれなりにアップダウンがあり、何とかそれを歩いてきた貧弱な足には本当に堪える下り道。お参り後、これを再び登って遊郭へ行くんだなあ、と思うと、昔の人のエネルギーに脱帽。
猿田彦神社にお参りし、おはらい町へ。

平日にもかかわらず、沢山の人、人、人。それも老若男女入り乱れている。そして皆さん、両手に抱えきれないほどのお土産。
おかげ横丁でお昼を食べ、内宮さんに入ったのが14時頃。
五十鈴川のほとりの御手洗は工事中で入れず。
滝祭宮へお参り。社殿はなく、石が据えてあった。そのあと、島路川を渡り風日祈宮(かぜひのみのみや)へ。

この日は風の強いだったが、このお宮さんの前は変わらず穏やかに風が流れていく。そして、ヘトヘトになった身体がスーッと楽になっていく感じがする。何でだろう?
御正宮への参道脇に、鹿、発見。それも7頭。人が参道からけして外れないことを知っているように、悠然と下草をはんでいた。

御正宮から荒祭宮、子安神社、大山祗神社へ。子安神社のたもとには、安産や子どもの授かりを願う人、また無事出産の御礼の言葉が、小さな鳥居にだけでなく、お白石にも書いて、積み重ねられていた。

宇治橋を戻って、タクシープールの裏手、客待ちの運転手さんの奇異の眼差しを浴びつつ、津長神社、饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)、大水神社へお参り。 15時20分、内宮さんの前を出発。

今度は御幸道路をたどって、月読宮へ向かう。本当にヘトヘト。かなりくじけそう。
そう言えば、荒祭宮の前で会った、名古屋からよくお伊勢さんに参りにくるというお婆さんは、外宮さんから歩いてきました、と言ったら「そら、若いもんなあ!」と笑われた。外宮から内宮までは、距離にして4、5キロだというから、「歩ける歩ける」と私もたかをくくっていたんですケド。

月読宮に着いたのが15時45分ころ。だいぶ、鎮守の中も薄暗くなってきていた。
先に葭原神社にお参りし、月読宮、月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮を順々にお参り。

『つきよみ』、は、外宮の別宮の月夜見宮も同じ『つきよみ』。祭神はそれぞれ月読尊と月夜見尊だけど、どちらも『つきよみのみこと』。「月を読む」ことと「月夜を見る」こととで、少し役割が違ったのではなかろうか、という推測もあるよう。
あと、伊佐奈岐(いざなぎ)宮の祭神は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)で、「いざなぎ」にあてる漢字が微妙に異なる。このへんも、面白いところ。 さて、ヘトヘト具合が限界に達した私。

月読宮から出て、五十鈴川駅で力つきました。五十鈴川駅から外宮まで約3キロ。ちょっとキビシイ。
宇治山田駅前までバスに乗り、河崎へ戻ったときには17時を回っておりました。
本当に、遊郭なんぞに行っている体力は私にはありません。情けなや。

ちょっと休憩のあと、南町の家のすぐ近くにある『月の家』さんへ。土蔵を店舗兼家にして、オリジナルの銀細工や着物の端切れで小物を作っておられるご夫婦のお店。気に入ったポーチがあったので、購入。

外宮さんから内宮さんまで歩いた、と言ったら「へーっ」と驚かれつつも、「あ、俺も今日、倭姫さんとこ行ってきたわ」とご主人。一方の奥さんは「徴古館のあたりとか、学校の授業の写生で行ったわ。けど、中に入ったことはないな、そう言えば」。
外宮も内宮も若い人が多かったですよ、と言ったら、「河崎にふらっと来た若い男の子がおって、『なら、お伊勢さんにお参りした?』て聞いたら、『あそこは女の神様で嫉妬するという噂があるんで、行きませんでした』て。結構、そういう知識あんねんな。天照さんは、男とか女とか関係ないと思うけど」。横で聞いていたご主人、「吉祥寺の弁天池みたいなもんやな」。ちなみにお二人は弁天池のボートには乗ってないことを確認。セーフ。
夜は、河崎商人館の西山さんと居酒屋へ。

伊勢街道が思ったよりアップダウンがある道だったことを話すと、学校があのあたりにあった、という西山さん、家から学校まで一旦下ってまた登らなければならなかったとか。「『まっすぐ行きたい!』て思っとったわあ。で、また余裕持って家なんか出えへんやろ、ばーっと坂を駆け上がって、着く頃にはもう息が切れとってな」。
勢い余って、3時間も話しこんでしまいました。


2005.2/16~18 絵と写真、文:岩井友子